「自分」って何?

「自分」または、「自分自身」と言う言葉は、とてもよく使う言葉だと思います。

では、「自分」とは、何でしょうか?
「自分」について、どのような説明をするでしょうか?

「自分」は、
「どこどこに生まれ、こんな家庭で育ち、仕事は何をしていて、こんな人と結婚して、今何歳で、もうすぐ子供生まれます。」
と言うような紹介するかもしれません。


しかしこの自己紹介は、
「観点の移動によって、大きく異なります」


アメリカ人に自分を紹介する時は、
「I'm Japanese」と日本人である事を紹介すると思いますし、
会社で取引先に会うときには、
「●●会社の●●事業部の●●です。弊社は創業何年で、社員は●●人で、売上げは・・」
となることでしょう。


このように自分の紹介である、「自己紹介」というのは、
その時の条件、状況によってコロコロと変わります。


したがって、「自分」についての明確な説明ができていない事になります。


また手・足・胴体・頭などを中心とした「体」「自分」と定義したとします。

その場合、今ある「自分の髪の毛」を美容室で丸坊主にした場合、
切って落ちた髪の毛は、「自分」でしょうか?
ただの髪の毛でしょうか?
または、もはや頭の上には無いので、
「髪の毛」ではなく、「硬たんぱく質」になるでしょうか?
「かつては髪の毛だった何か」でしょうか?


不幸にも、事故により「右腕」を切り離さなくてはならなくなってしまった。
この切り離された「右腕」は、「自分」でしょうか?
体の右側に接着していないので、「右腕」でもなく、「人間の上腕骨」となるでしょうか?
たんぱく質」となるでしょうか?


このように、「体」を「自分」だとすると、
上記のような例に明確な答えができなくなりますし、
「死んでしまったら、残った「体」は自分ですか?」という問いに答える事が出来ません。


この状態で、
「自分のお金」
「自分の家」
「自分の車」
「自分の服」
「自分の土地」
「自分の株」
「自分の家族」
「自分の恋人」
「自分の友達」
「自分の会社」
「自分の故郷」
「自分の幸せ」
「自分の満足」
「自分の成功」

と当たり前のように、「自分」を基点とした、日常生活を過ごしています。


「自分とは何か?」
「人間とは何なのか?」
「生きるとは何なのか?」
「人間はどこから来て、どこから来るのでしょうか?」
「自分の幸せ、とは何でしょうか?」


上記について誰からも教育を受けず、
盲目的に「当たり前」と信じて疑わなかったり、
そもそも疑問にすら思わなかった事に、
気が付く人も多いと思います。


私自身も、こういう本質的な問いに対してそもそも興味を持てなかった、
こういうことを考えるのは宗教のように感じていた、ひとりです。

宗教とは信じる事、崇拝する事が中心となりますが、
よっぽど「自分」の方が、盲目的に上記の問いを「わかっている、知っている」
無意識深くで信じていたんだ、「宗教的アプローチ」だったんだ、
と言う事に『HITOTSU学』と出会って、痛感しました。


『HITOTSU学』との出会いは、
「自分自身が何者かもわからない、答えられない」
と言う事を自覚し、受け入れる、
無知の知からのスタートでした。