束縛体系

人間の五感覚は、物・存在を「ありのまま」に認識できず、各自によってその五感覚の機能が異なるため、誰一人同じように物・存在を認識していません。


このように、
「物・存在をありのままに認識する事が出来ない」
「「誰一人同じように、物・存在を認識する事が出来ない」
という前提条件がある上で、
人間は、物・存在に名前をつけ、用途・機能・目的・意味、
そして価値(価格)を決定し、共通の規定(約束)をする事で、
物・存在について、共通認識を図ろうとしている、これが人間の根源的な
コミュニケーションです。


例えば、「ダイヤモンド」「川の石ころ」があります。

ダイヤモンドは、「宝石」であり、「美しく」、「装飾品」としての価値があり、
「希少性が高く」、値段は「10万円」します、そういう存在です、という共通認識をしています。


川の石ころは、「ただの石」で、「美しさはなく」、「希少性が無く」、値段は「0円」です、
そういう存在です、という共通認識をしています。


「美しいか、美しくないか」は個人の主観であり、
「まったく同じものは一つも存在しない」事実を踏まえると、希少性は同じであり、
装飾品として使うか使わないかは、その人の自由意志であり、
その対象物に対して、どの程度の価値を見出すかも個人の自由です。


しかし、一般的には、上記の「共通認識」「約束体系」が「常識化」されています。


このような約束体系は、
「物・存在のありのままを見れない人間」
「誰一人同じように、物・存在を認識する事が出来ない人間」
が、わかりやすいように、使いやすいように、伝達、意思疎通しやすいように、
歴史的にある特定の権威を持った人間が、
勝手に都合良く約束し、それが長い期間反復されてきたために、
「常識化」した「観念」でしかありません。


例えば、アフリカ奥地にルイ・ヴィトンのカバン」を持っていっても、
そのカバンに対して、日本人と同様の価値を見出す事はないでしょう。


これはルイ・ヴィトンというブランドに対する約束体系がまったく無いためです。


縄文時代の日本に「ルイ・ヴィトンのカバン」を持っていっても、
同じ現象がおきるでしょう。


日常生活のありとあらゆる「常識」「価値」は、
その時代(時間)、その国・地域(空間)にいて、その約束体系が成立しているからこそ、「常識」と認められ、「価値」と認められています。


これらの約束体系が土台となり、
「●●だったら、当然△△すべきだ」という当為論と
「●●だったから、△△と言う結果になった」という因果論が展開されます。


そして、
「●●だから、〜しなければならない」
「●●になりたかったら、〜するべきだ」
という「束縛体系」とも言える、「秩序」が生まれます。


このようにして当為論と因果論を無意識的に習慣化してしまった私たちは、
○×、
善悪、
好き嫌い、
やっていい・やってはいけない
などと常に判断し、判断される存在となりました。


その結果、心身ともに疲れ果てて「もううんざり」となったり、
判断される事自体を恐れて「何もしない、挑戦しない、やる気にならない」状態となる人が増えるのは自然な流れであると言えます。