「認識=存在、存在=認識」

私たちは今まで、「物・存在があるのが当然」という事を大前提にした上で、思考と論理を展開する、思考習慣を当然としてきました。


しかし、最先端の量子物理学において、超ミクロの世界では、認識主体と認識対象の分離・独立が否定され、「認識するから存在する」「認識=存在、存在=認識」という論理が、科学的に証明される直前まで到達しています。
これは簡潔に表現すると、「全ての存在は一つに繋がっている」ということになります。


さらに言うと、私たち人間が「何かを見る、観察する」という行為は、実際には可視光線の反射を目が捉え、それを過去の知識、イメージと繋げて何か(例えば高級なコーヒーカップ、例えば安い紙コップ)として認識していると言えます。
本当は見える世界全てが、光の反射の違いだけをとらえることができる脳の芸術であり、「本物の世界、ありのままの世界を知る事は無理だ」と言う事を素直に受け入れる必要があります。

これらに加え、今までの認識方式によってつくられる「判断基準」には、大きく分けて3つの限界があります。


1. 「環境によってつくられる判断基準の限界」
私たち人間が五感覚から入力するときの情報データは、環境による限界のあるデータ、つまり全体ではなく部分的な情報(環境)データに過ぎません。例えば、日本に住んでいたら、日本という環境に限定された情報データしか入力できないように、常に一部しか取り入れられないのです。

・束縛体系
・束縛体系の具体例



2. 「五感覚によってつくられる判断基準の限界」
例えば、人間の耳で聞こえる範囲(可聴域)は約20〜20000Hzと言われていますが、犬の聴覚は人間の6倍程だそうです。
つまり、犬には音として認識できるものも、人間には認識できないのです。
これは他の感覚器も同様であり、人間の五感覚でキャッチし、入力できる範囲はごく一部でしかなく、限界があります。

・五感覚の理解
・五感覚の不完全性



3. 「分離エゴ意識によってつくられる判断基準の限界」
最先端の量子物理学でも明らかになってきているように、「全ては一つに繋がっている」という事実があり、この観点から考えると、「この体の範囲だけが自分」という固定された観点、アイデンティティでは、生まれてから死ぬまで不完全な自分の脳と五感覚に固定されていると言う限界があります。

・「自分」って何?
・境界線


「環境」「五感覚」によってつくられる限界のある認識データによって「体の範囲だけが自分」と思う誤った「分別エゴ意識」が作られます。
この「分別エゴ意識」によって、人間は執着、偏見、自己偏愛をし、客観的判断ができなくなり、主観的思い込みをどんどん蓄積していくという道を無意識に選択しています。